2009年01月15日
サンバについて2
前回の投稿で、
・ひとくちにサンバといっても種類がある
・『羽根水着』のダンサーは一部の人だけで、それには理由がある
といったことを書きました。
今回は、なぜカルナヴァウでサンバが演奏されるようになったのか、
サンバの成り立ちも含めて書いてみようと思います。
よく誤解されることですが、サンバはいわゆる『未開の土人がズンドコ』というような
何百年もの歴史を持つような、伝統文化芸能という訳ではありません。
その歴史は、20世紀初頭、当時ブラジルの首都であった
リオ・デ・ジャネイロ(現在の首都はブラジリア)で生まれた、
ジャズやブルースとあまり変わらない、下手をするとそれより新しい
都会の音楽だということです。
大航海時代、コロンブスの新大陸発見以後、ポルトガルやスペインによって
新大陸の探索・侵略が行われていました。
後のブラジルとなる土地はポルトガルのものとなりました。
(厳密にはこの時点では一部分)
原住民であったインヂオを奴隷として使役しましたが
脱走や病死が相次ぎ、代わりにアフリカから黒人達を奴隷として
ブラジルへと連れてきました。
それは19世紀末の奴隷解放令まで続きます。
奴隷解放令以後、自由市民となったものの黒人達は仕事もなく、
当時の首都であったリオへと多くの黒人達が、職を求めて移動していきました。
奴隷解放令以前に自由市民となっていた黒人達も既に存在し、
リオのような大都会で、ミュージシャンとして活躍するものも
中には存在していたのです。
とはいえ、奴隷解放令直後ということもあり、
有色人種であるというだけで当時の富裕層たる白人達から差別されることも少なくなく、
多くの黒人達は貧しい生活を余儀なくされ、次第にコミュニティーを形成していきます。
同じく黒人を奴隷として使役したアメリカと違って、カトリック国家であるブラジルでは
元々のポルトガル人が異文化混合や人種交配に違和感を持たなかった、
ということもあり、アフリカ伝来の文化が比較的そのままの形で残されていました。
また都市の音楽文化はそれらを証明するように、
アフリカ伝来のものとヨーロッパ伝来のものが融合し、
新しい音楽文化が形成されていました。
マシーシ、マルシャ、といったものがそれで、
現在CDショップでも購入することが出来る『ショーロ』というジャンルに至っては
現在、世界のカフェで最も耳にする音楽のひとつとなっています。
都市でコミュニティーを形成した黒人達は日々の憂さを晴らすため、
また仲間内での絆を深める意味もあり、パーティーを開いては
父祖伝来の歌や音楽、ダンスに興じます。
それらが都市の音楽文化に刺激を受けて、変化していったであろうことは
想像に難くありません。
都市でミュージシャンとして活動していたものの中には黒人や混血の人達も多く、
彼らは人前で演奏するほかにも、上記したようなコミュニティーでの
仲間内のパーティー、いわば『音楽サロン』にも足しげく通うようになります。
そこでは前述した都市音楽はじめ、やはりアフリカ伝来のもの、
ヨーロッパ由来のものが分け隔てなく演奏され、次第にあるものを作り上げます。
それが20世紀初頭のことで、そこで産声をあげたのが、サンバでした。
白人層を中心にレコード産業というものが発達していたブラジルでは、
日常的に聞かれる音楽のほか、年に一度のカルナヴァウ向けに
いわばカルナヴァウソングも録音・発売されていました。
その時に生まれたサンバはカルナヴァウにおいて、大ヒットを記録します。
これに気を良くしたミュージシャン達はサンバをこぞって作曲するようになり、
次々に発表してゆきます。
カルナヴァウ向けのものもあれば日常向けのものも作曲され、
ラジオで流されたり、またレコードとして発売されるのでした。
サンバ以前にもカルナヴァウはもちろん存在した訳ですが
(キリスト教とともに持ち込まれた)、
そういった時に演奏されるのはマルシャであったり、
(現在でもマルシャでパレードを行うグループも存在します)
室内パーティーではポルカであったり、様々でした。
そこにサンバという新たな選択肢が生まれた訳ですが、
この時点ではまだまだカルナヴァウ自体が白人たちのもので、
サンバを生んだ当の黒人や混血人種の入り込める余地はありませんでした。
同時期、日常的にサンバを行っていたコミュニティーの中に
ひとつの変化が起こります。
サンバ好きが集まって、ひとつのグループを結成したのです。
それが『デイシャ・ファラール』という史上初のサンバチームでした。
(俺たちに話をさせろ、的な意味)
コミュニティーの住人達であったり、サンバ歌曲の作曲者達で構成されていた
デイシャ・ファラールは、なんと白人達のパレードへと出場を果たします。
それまでのカルナヴァウは白人層のもので、
黒人達はコミュニティー内で、自分たちが楽しむためのものとして
パレードを行ったり騒いだりはしていましたが、
生のサンバがまさに表通りへと進出を果たした訳です。
デイシャ・ファラールの練習場の向かいに小学校があったため、シャレで
『サンバ学校』(ポルトガル語で、エスコーラ・ジ・サンバ)を名乗っていたこともあり、
パレードに参加するにあたって、
『俺たちは学校なんだ。学校行事なんだから参加してもいいだろう?』
と言いくるめた、という逸話も残っていますが
既にサンバが少なからず市民権を得ていた、とも言えるでしょう。
デイシャ・ファラール自体は中心人物達が音楽的成功によって離脱したことにより、
求心力を失って短命のうちに解散してしまいました。
しかしこれが後のカルナヴァウにおいて、サンバパレード定着の引き金となるのでした。
・ひとくちにサンバといっても種類がある
・『羽根水着』のダンサーは一部の人だけで、それには理由がある
といったことを書きました。
今回は、なぜカルナヴァウでサンバが演奏されるようになったのか、
サンバの成り立ちも含めて書いてみようと思います。
よく誤解されることですが、サンバはいわゆる『未開の土人がズンドコ』というような
何百年もの歴史を持つような、伝統文化芸能という訳ではありません。
その歴史は、20世紀初頭、当時ブラジルの首都であった
リオ・デ・ジャネイロ(現在の首都はブラジリア)で生まれた、
ジャズやブルースとあまり変わらない、下手をするとそれより新しい
都会の音楽だということです。
大航海時代、コロンブスの新大陸発見以後、ポルトガルやスペインによって
新大陸の探索・侵略が行われていました。
後のブラジルとなる土地はポルトガルのものとなりました。
(厳密にはこの時点では一部分)
原住民であったインヂオを奴隷として使役しましたが
脱走や病死が相次ぎ、代わりにアフリカから黒人達を奴隷として
ブラジルへと連れてきました。
それは19世紀末の奴隷解放令まで続きます。
奴隷解放令以後、自由市民となったものの黒人達は仕事もなく、
当時の首都であったリオへと多くの黒人達が、職を求めて移動していきました。
奴隷解放令以前に自由市民となっていた黒人達も既に存在し、
リオのような大都会で、ミュージシャンとして活躍するものも
中には存在していたのです。
とはいえ、奴隷解放令直後ということもあり、
有色人種であるというだけで当時の富裕層たる白人達から差別されることも少なくなく、
多くの黒人達は貧しい生活を余儀なくされ、次第にコミュニティーを形成していきます。
同じく黒人を奴隷として使役したアメリカと違って、カトリック国家であるブラジルでは
元々のポルトガル人が異文化混合や人種交配に違和感を持たなかった、
ということもあり、アフリカ伝来の文化が比較的そのままの形で残されていました。
また都市の音楽文化はそれらを証明するように、
アフリカ伝来のものとヨーロッパ伝来のものが融合し、
新しい音楽文化が形成されていました。
マシーシ、マルシャ、といったものがそれで、
現在CDショップでも購入することが出来る『ショーロ』というジャンルに至っては
現在、世界のカフェで最も耳にする音楽のひとつとなっています。
都市でコミュニティーを形成した黒人達は日々の憂さを晴らすため、
また仲間内での絆を深める意味もあり、パーティーを開いては
父祖伝来の歌や音楽、ダンスに興じます。
それらが都市の音楽文化に刺激を受けて、変化していったであろうことは
想像に難くありません。
都市でミュージシャンとして活動していたものの中には黒人や混血の人達も多く、
彼らは人前で演奏するほかにも、上記したようなコミュニティーでの
仲間内のパーティー、いわば『音楽サロン』にも足しげく通うようになります。
そこでは前述した都市音楽はじめ、やはりアフリカ伝来のもの、
ヨーロッパ由来のものが分け隔てなく演奏され、次第にあるものを作り上げます。
それが20世紀初頭のことで、そこで産声をあげたのが、サンバでした。
白人層を中心にレコード産業というものが発達していたブラジルでは、
日常的に聞かれる音楽のほか、年に一度のカルナヴァウ向けに
いわばカルナヴァウソングも録音・発売されていました。
その時に生まれたサンバはカルナヴァウにおいて、大ヒットを記録します。
これに気を良くしたミュージシャン達はサンバをこぞって作曲するようになり、
次々に発表してゆきます。
カルナヴァウ向けのものもあれば日常向けのものも作曲され、
ラジオで流されたり、またレコードとして発売されるのでした。
サンバ以前にもカルナヴァウはもちろん存在した訳ですが
(キリスト教とともに持ち込まれた)、
そういった時に演奏されるのはマルシャであったり、
(現在でもマルシャでパレードを行うグループも存在します)
室内パーティーではポルカであったり、様々でした。
そこにサンバという新たな選択肢が生まれた訳ですが、
この時点ではまだまだカルナヴァウ自体が白人たちのもので、
サンバを生んだ当の黒人や混血人種の入り込める余地はありませんでした。
同時期、日常的にサンバを行っていたコミュニティーの中に
ひとつの変化が起こります。
サンバ好きが集まって、ひとつのグループを結成したのです。
それが『デイシャ・ファラール』という史上初のサンバチームでした。
(俺たちに話をさせろ、的な意味)
コミュニティーの住人達であったり、サンバ歌曲の作曲者達で構成されていた
デイシャ・ファラールは、なんと白人達のパレードへと出場を果たします。
それまでのカルナヴァウは白人層のもので、
黒人達はコミュニティー内で、自分たちが楽しむためのものとして
パレードを行ったり騒いだりはしていましたが、
生のサンバがまさに表通りへと進出を果たした訳です。
デイシャ・ファラールの練習場の向かいに小学校があったため、シャレで
『サンバ学校』(ポルトガル語で、エスコーラ・ジ・サンバ)を名乗っていたこともあり、
パレードに参加するにあたって、
『俺たちは学校なんだ。学校行事なんだから参加してもいいだろう?』
と言いくるめた、という逸話も残っていますが
既にサンバが少なからず市民権を得ていた、とも言えるでしょう。
デイシャ・ファラール自体は中心人物達が音楽的成功によって離脱したことにより、
求心力を失って短命のうちに解散してしまいました。
しかしこれが後のカルナヴァウにおいて、サンバパレード定着の引き金となるのでした。
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